プロットについて shiba7編集室 柴原

 文章修業のうち、レトリックが西の横綱なら、プロットは東の横綱と誰かが言っていました。そこで今回はプロットについて調べてみましょう。

 手元の「辞林」を開きますと、Plot:物語・小説・戯曲・映画などの筋立て。構想。とあります。Webのフリー百科辞典、ウイキペディアでは、1.グラフのこと。Plot a graphの意。2.プロット(物語):小説、戯曲、映画、漫画などの創作物で、物語の枠組み、粗筋のことで、ストーリーと区別される。とあります。

さらに、「文芸評論では、物語の中で起きている出来事が時間に沿って並べられたものがストーリーであるのに対して、その出来事を再構成したものをプロットと呼ぶ。プロットは時間軸に沿っているとは限らないが、出来事の因果関係を示す。」となっていて、ストーリーとプロットの違いがなんとなくわかります。

 川端康成、三島由紀夫、丸谷才一など日本の文豪・大家のものする文章読本その他のテキストを物色しても、案外プロットについて詳しく説明したものが見当たりません。そこで見つけたのが、米国の作家、ディーン・R・クーンツの著作「ベストセラー小説の書き方」"How to Wright Best Selling Fiction"(朝日文庫)でした。

 彼は、第4章の冒頭で、「プロットは小説の最大必要条件だ」と断定し、「強力なプロットをもたない小説は、すっかりめかしこんでいながらじつは出かけるあてのないブロンド美人のようなもの」と言います。

 ストーリー・ラインを組み立てるためにはプロットが必要ということで、366ページの文庫本の76ページから始まって177ページまで、100ページをプロットについての解説に当てています。ここでは、すべてをご紹介できませんが、ご興味のある方には非常に良い参考書になると思います。

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計らずも知る宝船の帆の絵文字

「大晦日の夜、枕の下に宝船の絵を敷いて眠ると、元旦の朝いい夢を見る」といいます。これは昔の日本にあった古い風習。城西、秋のハイキングで寄った目黒区の天恩山五百羅漢寺。ここに獏王像があります。獏(ばく)は人間の悪夢を食い、いい夢を与える動物という中国の伝説。これと日本の宝船信仰が結びつき、帆に獏の文字や絵が描かれるようになった。写真で見る獏王像は、人面牛身虎尾で、顔と腹の両側に各3個、計9個の目がある。2つ目の人間に、世の中をもっとよく見ろという寓意なのかも知れません。

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茶の十徳も一度に皆 (shiba7編集室)

日本永代蔵 巻四 「茶のの十徳も一度に皆」(岩波文庫)より

お客様は神さまだ、顧客満足の健康志向のと言っている割にはお客様がだまされる事件が相次ぎます。牛肉コロッケ偽造事件というのも日常的な食べ物のことだけに気になりました。

石川五右衛門辞世の句といわれる、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人のたねはつきまじ」というのがありますが、本当に詐欺人のたねもつきません。

西鶴先生が取材した三百年以上前の越前、鶴賀の港は当時大層にぎわった土地柄です。この町はずれに住んでいた小橋の利助という男は、商才に長け荷い茶屋という商いで元手を稼ぎ、煎茶の店を手広くはじめて、多くの手代を抱える大問屋となった。成功に機嫌を良くした利助は一万両の身代になるまではもったいないの精神で嫁もとらず、独身を通すという無理な生活を送っていた。

そのうち、よせばいいのに越中や越後に手代を差し向けて、捨ててしまう茶の煮殻を買い集めさせた。これを飲み茶にまぜてこっそり売り出し大もうけ。一時はもうけたものの、どうしたことか利助は急に気が狂って、「茶殻、茶殻」とわが身の秘密をしゃべりまくって狂い死にした。

銭の亡者の死に際は、それはそれはすさまじいもので、息も絶えようとした時内倉の現金を寝床の前後に並べてかじりついたそうな。「おれが死んだらこの金はだれの物になるのだろう。思えば惜しい、悲しい」と鬼のような顔。

今の世の中も、盗み、詐欺、殺人と新聞の社会面を見るのもいやな事になっているものの、犯人の末は拘留、監獄、自殺と最後は無残です。自己破産で逃げ切ろうとしても、なかなか世間は許さないでしょう。

西鶴先生いわく、「何事も身についてしまうと、どんな悪事でも自分ではそれと分からなくなってしまうものだ。そうなっては残念なことなので、人間ならば世間並みの世渡りをするべきである」とのことです。

 

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井原西鶴「日本永代蔵」巻の四第三章その二

「仕合せの種を蒔銭」=江戸にかくれなき千枚分銅屋、そなはりし人の身の程=

“人は正直を本とするのが。神の鎮座まします伊勢の国のならわし“から始まる本編は道の地面が見えないほどに銭をまき散らし、人々を驚かせた江戸在住の文銅屋のお話がメインですが、ここでは当時のお伊勢参りの様子を詳しく報告しています。

この伊勢の神社には百二十末社のご神体が納められているが、これ全て紙でつくられた張りぼてであると西鶴は言います。思えばもったいないことではありますが、何の偽りもない神の御心は、人の心に疑いを起こすことなく、日本に住むものは参宮している。心広い神の心はこの伊勢神宮の参道に色々な身過ぎ世過ぎの道を貧民に与えた。ところが中にはとんでもない不心得者がいて、宮参りの蒔銭に鳩の目という贋金を作り六〇文の値打ちしかないものを百文で売っている。いくら福の神とはいえどもあきれてものも言えない。300年前の伊勢神宮に人の集まること、繁昌ぶりは素晴らしく大大神楽の奉納金は山となり、諸願成就を祈る賽銭も山をなしている。これを目当ての小商い、物乞いの数はあまたなり。

*「日本永代蔵」井原西鶴作・岩波文庫より抜粋

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井原西鶴作「日本永代蔵」巻の四第三章

Shiba7編集室 (担当:柴原)

井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の四 第三章

「仕合せの種を蒔銭」

=江戸にかくれなき千枚分銅屋、そなはりし人の身の程=

伊勢参りといって、伊勢には多くの人が訪れるが、相の山にいる乞食が満足するほどの銭を恵む人はいなかった。ある時、小さな両替商いから身を起こした江戸堺町の分銅屋が、道の地面が見えないほどに銭をまき散らし、人々を驚かせた。

「いったいどんな長者なんだろう」と、その名を訪ねると分銅屋の何某という、世間に名を知られていない金持ちだった。世間には、金もないくせに見せかけばかり飾って商売する、空大名のような商人が多いが、この人は、表向きは軽く見えても身代はしっかりしており、暗がりに鬼をつないだような、薄気味悪いほどの実力があった。

そもそもこの人の商売の始めは、都伝内の芝居小屋の近所に、九尺間口の店を借りて銭店を出し、見物人たちが木戸札を買う小銭を両替していたが、銀二匁、三匁のうちに、五厘、一分ずつ両目を少なく量ったので、少しのこととはいえ積もれば大分の利益を得、しだいに栄えて両替屋となった。これこそ世にいう楠分限、根の揺るぐことのない身代。

*「日本永代蔵」井原西鶴作・岩波文庫より抜粋

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「日本永代蔵」

Shiba7編集室 (担当:柴原)

井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の四 第二章 その二

「心を畳込む古筆屏風」=筑前に隠れなき船持、クモの糸のかかるためしも=

前回は、筑前の国博多に住む貿易商人金屋のお話。豪商金屋が3回の台風で舟が沈没、財産をなくし、呆然としていたが、クモが巣を粘り強く張っていくことに刺激され、起死回生の長崎下り。商売は思うにまかせなかったものの、なじみの太夫が所有する古筆屏風をもらい受け、それを元手に再起するという展開でした。金屋さんの目利きとぬかりのなさが評価されてめでたしめでたしということで終わったのですが。・・・

日本永代蔵の面白さは、やはり西鶴翁の独り言、話の前か後に必ずついている薀蓄です。お話にちなんだ話題が書かれています。今回も金屋さんの商売に関係のある船と中国商人についてです。この頃は結構航海術も進歩して、航海の安全性も高まり、世に船があるからこそ十日に千里の沖を走って荷物を運ぶ、万事自由に用を足せるのだと、舟の信頼性が高まっていたようです。

大洋を航海して広い世界を知ることが大商人に至る道、わが家の前の細い溝川を一足とびに超えて、宝の島に渡ってみなければ大富豪にはなれない。広い世界を知らない人は残念なものだ。とこんなことを言っています。さらに西鶴翁は、中国人の評判の良さを指摘しています。身内びいきが世の常なのに西鶴翁は世の中を良く見ていること、確かです。

中国人相手の投資は大胆でなければ出来ないが、おおむね中国の人は正直だ。いわく、中国人は実直で口約束にも間違いなく、商品をごまかしたりしないし、お金もちゃんと払う。この点に変わることがない。

それに反して、ずるくて欲深なのは日本人で、しだいに針を短くし、織布の巾を縮め、傘にも油を引かず安上がりなのを第一とする。そして売り渡すと後はどうなってもかまわない。昔、対馬行きの煙草といって、小さな箱入りのものが大流行し、大阪でその職人に刻ませたところ、当分は分からぬだろうと手を抜いて、下に積む荷に水までかけて渡したものだから、輸送中に固まり、吸えなくなってしまった。

これでは中国の人も怒りますね。その翌年、なおまた前年の十倍も注文してきたので、欲に目がくらんだ連中が、われが先にと急いで送ったところ、大分港に積ませておいてから、「去年の煙草は、水に濡れていて役に立たなかった。今年は湯か塩につけてみなさい」と、全部突っ返されてしまった。ことほど左様に、人をだます仕事は後がつづかぬ、正直であれば神のおぼしめしもあり、清廉潔白なら仏も心を照らしてくれる。正直にやりなさいよというお説教でした。

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井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の四 第二章

Shiba7編集室 (担当:柴原)

井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の四 第二章

「心を畳込む古筆屏風」=筑前に隠れなき船持、クモの糸のかかるためしも=

今回は筑前の国博多に住む貿易商人金屋のお話。江戸時代の初期のころ、まだ鎖国政策が徹底する以前、長崎に中国などから織物、薬品、鮫皮などが盛んに輸入されていました。金屋は自ら船を仕立てて長崎商いをする大商人。かなりの豪商だったようです。

当時の航海は、気象衛星などありませんから運任せ、台風などに遭遇して遭難することもままあります。リスクが高い分、長崎からの唐物は、大阪や江戸表では高い値がつきますが、典型的なハイリスク、ハイリターンの商売です。金屋さんも運の悪いことにその年一年に三度までも台風に会い、持ち船を貨物もろともなくしてしまった。年来の資本金をつかい果たして残るものといえば家蔵のみとなりました。

従業員も去り、妻子ともにその日暮しの哀れな身の上。船の商売の危険なことが身にしみて、孫子の代まで船には乗せまいと心に誓いを立てるほどとなりました。手入れの出来ない庭に出て、荒れ放題の夏草に今後どう再起したものかと思案しつつ呆然としています。

金屋さんが、塀越しに高く茂った大竹の梢から隣の杉の梢に糸を張ろうとするクモを見つけます。一度ならず二度、三度と風に糸を切られ、失敗しては糸を張りなおし、やっと四度目に渡りきってまもなくクモの巣を作り、飛ぶ虫を捕らえて餌とします。なお糸を繰り出して巣を広げて行くのを見た金屋さんは、「この粘り腰は見習うべきだ、クモでさえ気長に仕事を成し遂げる、まして人間たるもの気短にものごとを投げ出してはならない」、と思い定めたのでした。

金屋さんはこれを機会に心機一転、再チャレンジを試みます。家屋敷を売り払い、その元手を懐に自ら長崎へ仕入の旅に出発します。目的は唐織、薬種その他舶来品で、仕入れて次期を待てば高く売れるのは間違いないものばかりです。ところがここには堺、京都などから大商人がつめかけており、懐の五十両では競り勝つことが出来ません。

とても勝負にならない商売に嫌気がさした金屋さんは、やけくそになって丸山の遊女町へ足を向けます。かって繁盛していた頃のまま、馴染みの花鳥という太夫に会います。今宵一夜が一生の遊びおさめと、しんみりした気分で枕もとの屏風を見ていると、これがなんと値打ちもの、両面総金箔おきで古筆が隙間なく張ってある。

それからは持金が続く限り通いだし、太夫とねんごろになります。ころあいを見て太夫に例の屏風が欲しいというと、太夫はわけもなくくれました。金屋さんはとるものもとりあえず別れも告げずに上方へ上ります。つてを求めてこの屏風を大名に大金で売り渡します。この資金を元手に金屋さんは昔に変わらぬ大商人に返り咲きました。奉公人を大勢使う身分になったわけです。

その後金屋さんは長崎に行って太夫の花鳥を身請けし、その頃花鳥が結婚したいと思う男がいるということで、そこへ十分な持参金と嫁入道具一式をそろえて嫁がせます。この仕打ちに花鳥は限りなく喜び、「このご恩は忘れません」と言いました。一度は遊女を騙したとはいえ、ここは憎めないやり方だと評判をとります。目利きとぬかりのなさは商売人に必須のものとはいえ、ここに人情と思いやり、反省がなければ非難されたでしょう。

以上がお話のあらましですが、それにしても新聞も週刊誌もTVもない時代。こういう話をいくつも集めた西鶴翁の取材力には驚かされます。

*「日本永代蔵」井原西鶴作・岩波文庫より抜粋

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井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の四 第一章

shiba7編集室編

祈る印の神の折敷

=京に隠れなき桔梗染屋、わら人形の夢物がたり=

本邦初の経済小説という枕につられて日本永代蔵を読み進むうち、成功事例が20章、倒産や失敗にからむお話が10章あり、失敗例は身につまされて、気も滅入ることから成功事例のみを最初岩波文庫の旧版を現代語訳、角川文庫の現代語版を見つけてからは各章のダイジェスト版を記録しておこうと始めた作業なのですが、さすが俳句の神様の筆だけあって文章の省略ができません。一部分でも省略すると全体のイメージが壊れてしまうような感じがします。ということで、今回もなるべく自分が読みやすい文章に直すというような感覚で模写を進めます。パターンとしては西鶴翁が世の中を見渡し、結構薀蓄を述べてからお話が始まるのですが、今回は、前口上は少なく物がたりに入ります。

 

京都清水寺のご神前にかかる「奉・掛御宝前」と書いた大絵馬。これは呉服屋のなにがしが銀百貫目の身代を祈り、その願が成就したので、その名を記してかけられたものだという。今その家の繁盛を以前と比べれば、一代のうちに金銀もたまればたまるものだと、室町の呉服屋仲間のうちでもっぱらの評判となっている。人は皆欲で固まった世の中であるから、若恵比寿・大黒殿・毘沙門天・弁財天などの福の神に願いをかけ、打出の小槌に取りついて元手を得るように願うが、今は世知辛い時代になったので、そんな願いはかないがたい。

ここに桔梗屋という貧しい染物屋の夫婦があった。商売を大事にし、正直一途に工夫をし、少しも休まず働くのであるが、毎年暮には餅の手当ても遅れ勝ち、正月の飾り物もなくて元旦を迎えることが悔しい。節分の夜は吉夢をねがって宝船を敷いて寝たり。福は内にと大豆もずいぶんまくのだが、その甲斐もない。あまり貧しいので分別が変わって、「世間ではみな福の神を祭るのがならわしだが、おれはひとつ人の嫌っている貧乏神を祭ってやろう」と、おかしげなわら人形をこしらえて、渋帷子をきせ、頭に紙子頭巾をかぶらせ、手に破れ団扇をもたせたみぐるしい姿を松飾りの中に安置して、元旦から七草の日まで精一杯もてなした。

貧乏神はうれしさのあまり、七草の夜亭主の枕元にゆるぎ出て、「わしはこれまでの長い年月貧家をめぐる役で、身をかくしてさまざま悲しいことの多い家の借銭の中に埋もれてきた。いたずらをする子供を叱るにも、貧乏神めとあてこすりをいわれたものだ。かといって金持の家へ行くと、ふだん丁銀を秤る音が耳にひびいて、癪の虫がおこるし、朝晩の鴨鱠や杉焼きの贅沢料理が胸につかえて迷惑する。わしは元来その家の内儀についてまわる神だから、奥の寝間にも入るのだが、重ね布団に釣夜着、それにパンヤのくくり枕などがこそばゆくてかなわないし、白無垢の寝巻きにたきこめた香も鼻をふさぎ、花見・芝居行きにビロード窓の乗り物にゆられて、めまいがしてしまう。夜は蝋燭の光が金襖に映り、まぶしくてかなわない」

「それよりは貧乏な家の灯火の、十年も張替えない行燈のうす暗いのが、どんなによいかわからない。夜中に油を切らして、女房の髪の油を間に合わせに差すなど、そうした不自由な様を見るのが好きで、毎年暮らしてきた。だれ一人相手にしてくれる人もなく、投げやりにされてきたので、依怙地になって、いよいよそんな家を衰微させていた。ところがこの春そちが心にかけて、この貧乏神を祭ってくれ、こうしてお膳の前に座って物を食ったのは、今までにこれがはじめてだ。この恩を忘れることはできぬ。この家に伝わっている貧銭を、二代長者の奢り者にゆずり、この家をたちまち繁盛させてやろう。それ見過ぎの業はいろいろあり、柳は緑、花は紅」と、二度、三度、四、五度とくり返し、あらかたな御霊夢であった。

桔梗屋は覚めてもこの夢を忘れず、有難く思いこみ、「自分は染物屋なのだから、くれないというお告げはまさしく紅染めのことであろう。けれどもこれは小紅屋という人が大分仕込んで、世の中の需要をみたしている。そればかりか近年は砂糖染を工夫した者もあり、深い知恵物の多い京のことだから、なみなみの事でもうけるのは思いもよらない」と、明暮れ工夫をこらしていたが、蘇芳(すおう:黒ずんだ紅色染料)で下染めして、その上を酢で蒸しかえすと、本紅(ほんもみ)の色と少しも変わらない。これを秘密にして染めこみ、みずから荷物をかついで江戸に下り、本町の呉服屋に売って、京への上り商いには奥州筋の絹と綿を仕込み、さす手ひく手に油断なく鋸商いをして、十年たたぬうちに千貫目余の金持となった。

この人はあまたの手代を置いて万事をさばかせ、その身は楽しみを極め、若い時の苦労を取り返した。これこそ望ましい人間の身の持ちかたである。たとえ万貫目持っているからといって、老後までもその身を使い、心を労して世を渡る人は、一生は夢の世と悟らぬもので、いくら金があっても無意味であろう。

さて家業はどういうものかというと、同じ武士も大名はそれぞれきまった世襲の知行があるのだから、別に出世の願いはないわけだ。けれども一般の侍は、親ゆずりの知行を取って、そのまま楽々と一生を送るというのは、武士として本意ではない。自分の力で奉公を勤めて、官職俸禄を進めてこそ出世というものである。町人も親にもうけためさせ、譲り状1枚で家督を相続し、信用を築いておかれた商売を守り、または家賃や貸銀の利息を勘定するのみで、あたら世をうかうかと送り、二十歳前後から無用の竹杖をつき、置頭巾をかぶり、長柄の傘をさしかけさせて歩いたり、世間の思惑をかまわずに分に過ぎた贅沢をする男を見うけるが、いくら自分の金を使ってするにしても天命知らずというものだ。

人は十三歳までは分別のない子供だからいいとして、それから二十四、五までは親の指図を受けて働き、その後は自分の了見で稼ぎ、四十五までに一生こまらぬだけの基礎を固めておいて、遊楽することに決まっている。しかるに何事だ、若隠居などと称して男盛りの勤めをやめ、大勢の召使に暇をやってほかの主人に仕えさせ、将来の出世を頼みにしていた甲斐もなく、難儀な目にあわせる奴がある。

町人の出世というのは、召使の者を取立てて女房を持たせ、その家の暖簾を大勢に分けてやることであって、これこそ親方たるものの道である。一体三人暮らしまでは、世帯を張っているとは言わない。五人暮らしから世渡りというのだ。召使の一人も使わぬ人は、世帯持ちとはいわない。旦那と呼ぶ者もなく、朝晩の食事も給仕盆なしに手から手へとでは、いかに腹が膨れるからといって口惜しいことではあるまいか。

かように同じ渡世といっても、格別の違いがあるものだ。これを思ったら暫時も油断をしてはならない。金銀はまわり持ち、念力にまかせて溜まるまいものでもない。この桔梗屋夫婦は、自分たちだけで働き出し、今では一家七十五人を指図する身となり、願いの通り大屋敷をかまえ、七つの内蔵、九間の座敷、庭には万木千草のほかに、銀のなる名木がはびこっており、住んでいる所はしかも長者町である。

「日本永代蔵」井原西鶴著、岩波文庫&角川文庫版より抜粋

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日本永代蔵 

日本永代蔵 巻の二 第五章 「船人馬方鐙屋の庭」その一

( 坂田に隠れなき亭主振り、明くれば春なり長持ちの蓋 )

  このお話には問屋という商家が出てきます。問屋は今でいう卸商、右から左への大商いというイメージですが、当時の問屋の商いは、かなりその趣が異なっていたようです。 参百年まえの北国の雪は深く、毎年十月の初めから山道を埋め、人馬の通行も絶えて、翌年の涅槃会までは自然と精進生活をすることになる。焚き火を楽しみ、隣や向かいの家とも付き合いがなくなって、半年は何もせず、明け暮れ煎じ茶を飲んで日を送っている。それでも、必要なものは皆、前もってたくわえておくので餓死することはない。こんな辺鄙な漁村山村へ、馬だけで荷物を運んだら、すべてが高価になってさぞ困るだろう。世に船ほど便利なものはない。

  ここ坂田の町に鐙屋という大問屋がある。小さな旅人宿から、自らの才覚で稼いで近年しだいに繁盛し、諸国の客を引きうけ、北国一の米の買入れ問屋となり、惣左衛門という名を知らない物はない。表口三十間、奥行六十五間の屋敷に家や蔵を建て続け、台所の様子はめざましいものだった。それぞれ使用人一人に一役を受け持たせ、事を効率的に処理している。亭主は一年中袴を着て、すこしも腰を伸ばさず頭を下げ続け、お内儀は軽装で居間を離れず、朝から晩まで笑顔を絶やさない。なかなか上方の問屋などとは違って、人の機嫌をとり、家業を大事に務めている。

  座敷は数限りなくあって、客一人に一間ずつあてがってある。客の世話をするこの土地で杓という女性従業員が三十六、七名、皆今様の着物姿。「十人寄れば十国の客」というように、ここにも大阪の人がいるかと思うと、播州網干の人もおり、山城は伏見の人、京・大津・仙台・江戸の人が入り混じって世間話をしている。どの人の話を聞いても、皆賢そうで、一人前の仕事をさばけないような人はいない。

  しかし、年取った手代は、将来独立する自分のためになる事をしておくものだし、若い手代は、色里で派手につかいすぎ、とかく主人に利を得させることがないものだ。 思うに遠国へ商いにやる手代は、実直すぎるものはよくない。というのは、何事も控え目にして人の後につくので、利を得ることがむずかしいからだ。また、大胆で時に主人に損をかけるほどの者は、一方ではうまい商売をして、やりすぎて背負った借金の穴を埋めることも早いものだ。

・・・つづく

*「日本永代蔵」井原西鶴作・岩波文庫より抜粋

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