shiba7編集室
「煎じよう常とはかはる問薬」
=江戸に隠れなき箸削、小松さかえて材木屋=
(江戸時代、人生五〇年という時代に四〇歳を過ぎて無一文から創業し、お大尽
になったというおめでたいお話。木屑を拾って思いついたのは箸作り)
「四百四病は、世に名医があり、必ず直せるといいますが、人には知恵・才覚の有無にかかわらず、貧病の苦しみがあります。これを何とかなおす治療法はないでしょうか」と富裕の人にたずねると、「おやおや、今頃何を言っているのか、40過ぎまでうかうか暮らしては、診察がちと遅かりしとは思うが、長持ちする革足袋に雪駄という服装には心がけを感じる。もしかすると金持ちになれるかもしれない。それでは、長者丸という妙薬の処方を教えてあげよう。
○早起き5両、○家業20両、○夜業8両、○倹約10両、健康7両と、この50両を細かく砕いて、十分に気をつけ秤目に間違いのないように調合し、これを朝夕飲めば長者に名らぬということはない。しかし、更に大事なことは毒断ちをすることだ。
普段の美食と淫乱と絹物をきること、○女房を乗り物に乗せて贅沢をさせ、娘に琴、歌がるたをやらせること、○息子にいろんな楽器を習わせること、○鞠、揚弓、香会、連歌、俳諧、○座敷普請・茶の湯道楽、○花見・舟遊び・昼風呂入り、○夜歩き・博打・碁・双六、○町人に無用な居合いや剣術、○寺社参詣・後生を願う気持ち、○諸事の仲裁や保証の判をおすこと、○新田開発の出願と鉱山に関係すること、○食事毎の飲酒・煙草好き・当てのない京上り、○勧進相撲の金主・奉加帳の世話役、○家業のほかの小細工や金の放し目抜きにこったりすること、○役者に見知られ、揚屋と近づきになること、○月8厘より高い利息の借金、まずこれだけを斑猫・砒霜石より恐ろしい毒薬だと思い、口に出すのはもちろん心に思うこともないようになさい」と小耳にささやいた。
聞いた男はこれ皆金言と喜び、その金持ちの言うとおりにして、明け暮れ油断なく稼ぐことにした。「ここはお江戸だから、何をしたって商売の相手はあるだろう。何か面白い商売の種はないものか」と、日本橋の南側の隅に明け方から一日立ち通した。さすがに江戸は諸国から人の集まるところだけあって、人の群れは山のよう、その賑わいは、京の祇園会、大阪の天満祭りに変わらない。この毎日の繁盛も、盛んなご時世なればこそ、徳川将軍の治める政道とともに広い通り町十二間の大道も人でいっぱいになり、この橋の上に馬上の侍一人、出家一人、槍一本が朝から晩まで絶えた事がない。
しかし、人が大事にしているものは誰一人落とさず、銭一文でも、どうしてどうして、目に角を立ててみても拾うのは難しい。これを思うと、金というものはあだやおろそかにつかうものにあらず。「ともかく商売に精を出してみよう」と油断なく心がけてみるものの、元手なしの手ぶらでとりかかれることでは、今の世の中に、柔術の師匠か産婆さん以外にはあるまじ。「種をまかずに、小判も一歩も生えたためしはないものの、なんとか元手なしで儲かることはないものか」と、気をつけ、苦心しているうちに、方々のお屋敷に行って、その日の普請を終わった大工や屋根屋がそれぞれ一団となって二百人、三百人と甲高い声で話しながら帰っていく。鬢は前にそそけ、変な髪形で、襟の汚れた着物を着、袖口の擦り切れた羽織の上に帯を締め、間竿を杖に突いているものもいるが、大方は懐手をして、腰のかがんだ後姿、その職人だと看板なしでも分かる。後からついてくる見習いの小僧に、鉋屑や木端を背負わせていたが、あたら檜の切れ端が落ちてすたるのもかまわず行ってしまう。
「こんな連中までが大様なのは、さすが将軍家のご城下なればこそ」と思われて、これに気をつけ、一つ一つ拾っていくと、駿河町の辻から神田の筋違橋までの間で、一荷にあまるほども集まった。そのままこれを売ったところが、二百五十文まるまる儲けた。足元にこんなうまい事があるのを、今まで知らなかったことは残念と、それからは、毎日、夕暮れを待ちかね、大工たちの帰りを見合わせ、その道筋に落ちているだけ拾ったところが、五荷より少ないことはなかった。
雨の降る日は、この木屑で箸を削り、須田町・瀬戸物町の八百屋に卸売りをし、箸屋甚兵衛という名が鎌倉河岸に知れわたり、しだいに金持ちになった後には、この木ぎれが大木となり、材木町に大きな屋敷を買い入れ、手代だけでも三十余人を抱えた。河村・柏木・伏見屋といった一流の材木屋に劣らないほどの木山を買い込み、海のように広い度量から、身代は順風を真艫に受けた船のように大きく伸びた。帆柱用の高価な材木を買い置きして思うがままの儲けを得て、程なく四十年のうちに十万両の手持ち金があるようになった。
これこそ若いとき飲み込んだ長者丸の効験が現れた証拠となる。今はもう七十余歳だから少しぐらいの不養生もかまわないだろうと、初めて上下ともに飛騨紬に着替え、芝魚もそれぞれに味を覚え、築地の西本願寺別院に毎日参って、帰りには木挽町の芝居を見物し、夜は碁友達を集め、雪のころには新茶の壺の封を切って茶の湯の会を催し、水仙の初咲きを投げ入れに生けたりした。こんな風流なことをいつ習い始めたのか誰も知らなかったが、銀さえあればどんな事でもできるものだ。
この人は、老後も若いときと同じく一生けちで通したら、富士山を白銀にしたくらいの財産ができたかもしれない。しかし、いくら財産を持っていたとて、結局は武蔵野の土か橋場の煙となってしまう身であることを悟り、老後の生活費を賢くも取りのけておき、この世のあらゆる楽しみを味わい尽くしたのだ。世の人はうわさを聞いて子供の名づけ親を頼んだりと、人々に敬意を表され、いやになるほどの好評を受けて、八十八歳の時に亡くなった。死後までも余徳がおよび、そのまま仏様としてまつられるのではないかとも言われ、あの世でもきっと仕合せだろうと万人がこれをうらやましく思った。人は若いときにたくわえて、年とってからそれを緒人に施すことが大事だ。なんとなれば、とてもあの世までは持っていけないものだから・・・・・・。とは言っても、この世でなくてならぬものは銀(金)、・・・銀(金)の世の中とはよくぞ言ったものだ。
今の時代、甚兵衛さんのように、もとでなしで行政の窓口へ現れても、創業融資は受けられません。それでも一文無しから木屑を拾い、箸を削って財を成す。どうにも夢のような話でもあり本当なのかなと思いますが、よく考えると現代でも、捨てるようなマンガ本を回収して古本屋さんのビッグチェーンを創業したり、着物や洋服のリサイクル・ショップ、工場でキズがでて廃棄するところを小売する本来のアウトレット・・・など結構似たような事例が見つかります。このお話ですごいのは、三百年前人生五〇年といわれた時代の四〇歳過ぎてからの文無し起業です。今の感覚なら六〇歳過ぎてからの商売探しの個人創業というところ。思い立ったが吉日、何をやるにも遅いということはないのでは。
*「日本永代蔵」井原西鶴作・岩波文庫より抜粋
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