柳はみどり、花は紅

 しばらく日本永代蔵の本から離れていました。桜の季節になり、思い出したのが、「柳は緑、花はくれない」というフレーズです。

 巻四の最初に出てくる物語り、「祈るしるしの神の折敷」のなかで貧乏神が主人公の耳元で何回も何回も囁いたという言葉。主人公の桔梗屋甚三朗はこの言葉をヒントにして工夫を重ね、甚三紅を発明、江戸への売り込みに成功して長者となる。この桔梗屋甚三朗という人は実在の人物で、脚注に延宝九年没とあります。おそらく西鶴翁が直接取材したのか、聞いた話しなのかは別としてノンフィクッションであることは間違いありません。

 このお話しの最大の魅力は、貧乏神が自ら語るところです。「わしはこれまでの長い年月、貧家をまわる役目で・・・」から「この貧乏神を祭ってくれた恩は忘れがたい、この家に伝わっている貧銭を、贅沢な金持ちの二代目にゆずり、この家をたちまち繁盛させてやろう。世渡りの業もいろいろあるが、柳は緑、花は紅・・・柳は緑、花は紅」と最後の文句を何回も繰り返したという。

 貧乏神といえば、人にとりついて損ばかりを押し付ける神様であり、ご利益など考えられません。まさか人を長者にする能力を持っているとは思いもよりませんでした。この部分は西鶴翁の創作に違いなく、確かに面白い。大黒天や毘沙門天などの派手な七福神に比べて貧乏神のイメージは暗いし絵にもなっていませんが、ここでは顔の見える貧乏神が描かれています。

 桔梗屋の成功は貧乏神の囁いた「花は紅」という言葉をヒントとしたこととなっていますが、あくまでヒントなので、実際に甚三紅を成功させるまでの創意工夫は桔梗屋本人の努力です。このお話しの教訓は、神様は現金を持ってはおりませんが、ヒントはくれるもの。創意工夫が長者への道、決してあきらめてはいけませんという所でしょうか。

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07年、あけましておめでとうございます。

 新年あらたまり、明けて平成19年、「日本永代蔵」からご紹介している成功譚シリーズも終わりに近づいてきました。日本国中の金持ちの話を大福帳に書きしるし、後々までも見る人のためになるであろうと、これを永久に続く堅固な蔵におさめる。このような日本永代蔵が300年の期間読み続けられているのはなぜでしょう。

 副題に「大福新長者教」とありますように、この本は当時の青少年にとって、富貴に至る教科書のような効能があったものと思われます。成功物語を続けて読んで感じますところは、「親ゆずりの身分や遺産をあてにせず、独立独歩で勝利をかちとれ、全ての勝利者ももとは無名の若者であった」という西鶴翁の強烈な主張です。

 昔も今も、時代の制約というものがあり、夢を成就させるにはなまじの努力ではなり難しは同じことでしょうが、身分制度やらなにやらの規制が厳しかった西鶴の生きた時代に比べれば今の方がチャンスは多いような気もします。

 「成功も失敗もあざなえる縄の如し」ともいわれますので、日本永代蔵の失敗事例も読み飛ばすわけにもいきません。要約だけでもしてみましょう。今年もしばらくは西鶴翁とのお付き合いが続きます。

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井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の三 第一章

shiba7編集室

「煎じよう常とはかはる問薬」

=江戸に隠れなき箸削、小松さかえて材木屋=

(江戸時代、人生五〇年という時代に四〇歳を過ぎて無一文から創業し、大尽

 にったというおめでたいお話。木屑を拾って思いついたのは箸作り)

「四百四病は、世に名医があり、必ず直せるといいますが、人には知恵・才覚の有無にかかわらず、貧病の苦しみがあります。これを何とかなおす治療法はないでしょうか」と富裕の人にたずねると、「おやおや、今頃何を言っているのか、40過ぎまでうかうか暮らしては、診察がちと遅かりしとは思うが、長持ちする革足袋に雪駄という服装には心がけを感じる。もしかすると金持ちになれるかもしれない。それでは、長者丸という妙薬の処方を教えてあげよう。

○早起き5両、○家業20両、○夜業8両、○倹約10両、健康7両と、この50両を細かく砕いて、十分に気をつけ秤目に間違いのないように調合し、これを朝夕飲めば長者に名らぬということはない。しかし、更に大事なことは毒断ちをすることだ。

普段の美食と淫乱と絹物をきること、○女房を乗り物に乗せて贅沢をさせ、娘に琴、歌がるたをやらせること、○息子にいろんな楽器を習わせること、○鞠、揚弓、香会、連歌、俳諧、○座敷普請・茶の湯道楽、○花見・舟遊び・昼風呂入り、○夜歩き・博打・碁・双六、○町人に無用な居合いや剣術、○寺社参詣・後生を願う気持ち、○諸事の仲裁や保証の判をおすこと、○新田開発の出願と鉱山に関係すること、○食事毎の飲酒・煙草好き・当てのない京上り、○勧進相撲の金主・奉加帳の世話役、○家業のほかの小細工や金の放し目抜きにこったりすること、○役者に見知られ、揚屋と近づきになること、○月8厘より高い利息の借金、まずこれだけを斑猫・砒霜石より恐ろしい毒薬だと思い、口に出すのはもちろん心に思うこともないようになさい」と小耳にささやいた。

聞いた男はこれ皆金言と喜び、その金持ちの言うとおりにして、明け暮れ油断なく稼ぐことにした。「ここはお江戸だから、何をしたって商売の相手はあるだろう。何か面白い商売の種はないものか」と、日本橋の南側の隅に明け方から一日立ち通した。さすがに江戸は諸国から人の集まるところだけあって、人の群れは山のよう、その賑わいは、京の祇園会、大阪の天満祭りに変わらない。この毎日の繁盛も、盛んなご時世なればこそ、徳川将軍の治める政道とともに広い通り町十二間の大道も人でいっぱいになり、この橋の上に馬上の侍一人、出家一人、槍一本が朝から晩まで絶えた事がない。

しかし、人が大事にしているものは誰一人落とさず、銭一文でも、どうしてどうして、目に角を立ててみても拾うのは難しい。これを思うと、金というものはあだやおろそかにつかうものにあらず。「ともかく商売に精を出してみよう」と油断なく心がけてみるものの、元手なしの手ぶらでとりかかれることでは、今の世の中に、柔術の師匠か産婆さん以外にはあるまじ。「種をまかずに、小判も一歩も生えたためしはないものの、なんとか元手なしで儲かることはないものか」と、気をつけ、苦心しているうちに、方々のお屋敷に行って、その日の普請を終わった大工や屋根屋がそれぞれ一団となって二百人、三百人と甲高い声で話しながら帰っていく。鬢は前にそそけ、変な髪形で、襟の汚れた着物を着、袖口の擦り切れた羽織の上に帯を締め、間竿を杖に突いているものもいるが、大方は懐手をして、腰のかがんだ後姿、その職人だと看板なしでも分かる。後からついてくる見習いの小僧に、鉋屑や木端を背負わせていたが、あたら檜の切れ端が落ちてすたるのもかまわず行ってしまう。

「こんな連中までが大様なのは、さすが将軍家のご城下なればこそ」と思われて、これに気をつけ、一つ一つ拾っていくと、駿河町の辻から神田の筋違橋までの間で、一荷にあまるほども集まった。そのままこれを売ったところが、二百五十文まるまる儲けた。足元にこんなうまい事があるのを、今まで知らなかったことは残念と、それからは、毎日、夕暮れを待ちかね、大工たちの帰りを見合わせ、その道筋に落ちているだけ拾ったところが、五荷より少ないことはなかった。

雨の降る日は、この木屑で箸を削り、須田町・瀬戸物町の八百屋に卸売りをし、箸屋甚兵衛という名が鎌倉河岸に知れわたり、しだいに金持ちになった後には、この木ぎれが大木となり、材木町に大きな屋敷を買い入れ、手代だけでも三十余人を抱えた。河村・柏木・伏見屋といった一流の材木屋に劣らないほどの木山を買い込み、海のように広い度量から、身代は順風を真艫に受けた船のように大きく伸びた。帆柱用の高価な材木を買い置きして思うがままの儲けを得て、程なく四十年のうちに十万両の手持ち金があるようになった。

これこそ若いとき飲み込んだ長者丸の効験が現れた証拠となる。今はもう七十余歳だから少しぐらいの不養生もかまわないだろうと、初めて上下ともに飛騨紬に着替え、芝魚もそれぞれに味を覚え、築地の西本願寺別院に毎日参って、帰りには木挽町の芝居を見物し、夜は碁友達を集め、雪のころには新茶の壺の封を切って茶の湯の会を催し、水仙の初咲きを投げ入れに生けたりした。こんな風流なことをいつ習い始めたのか誰も知らなかったが、銀さえあればどんな事でもできるものだ。

この人は、老後も若いときと同じく一生けちで通したら、富士山を白銀にしたくらいの財産ができたかもしれない。しかし、いくら財産を持っていたとて、結局は武蔵野の土か橋場の煙となってしまう身であることを悟り、老後の生活費を賢くも取りのけておき、この世のあらゆる楽しみを味わい尽くしたのだ。世の人はうわさを聞いて子供の名づけ親を頼んだりと、人々に敬意を表され、いやになるほどの好評を受けて、八十八歳の時に亡くなった。死後までも余徳がおよび、そのまま仏様としてまつられるのではないかとも言われ、あの世でもきっと仕合せだろうと万人がこれをうらやましく思った。人は若いときにたくわえて、年とってからそれを緒人に施すことが大事だ。なんとなれば、とてもあの世までは持っていけないものだから・・・・・・。とは言っても、この世でなくてならぬものは銀(金)、・・・銀(金)の世の中とはよくぞ言ったものだ。

今の時代、甚兵衛さんのように、もとでなしで行政の窓口へ現れても、創業融資は受けられません。それでも一文無しから木屑を拾い、箸を削って財を成す。どうにも夢のような話でもあり本当なのかなと思いますが、よく考えると現代でも、捨てるようなマンガ本を回収して古本屋さんのビッグチェーンを創業したり、着物や洋服のリサイクル・ショップ、工場でキズがでて廃棄するところを小売する本来のアウトレット・・・など結構似たような事例が見つかります。このお話ですごいのは、三百年前人生五〇年といわれた時代の四〇歳過ぎてからの文無し起業です。今の感覚なら六〇歳過ぎてからの商売探しの個人創業というところ。思い立ったが吉日、何をやるにも遅いということはないのでは。

*「日本永代蔵」井原西鶴作・岩波文庫より抜粋

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日本永代蔵

shiba7編集室

井原西鶴作「日本永代蔵」 巻の二 第五章 =「船人馬方鐙屋の庭」完結編=

「坂田に隠れなき亭主振り、明くれば春なり長持ちの蓋」
:
今回は、坂田の豪商鐙屋のお話の後編です。

300年前の問屋という業態のあらましと商人気質が、西鶴の目を通して描かれます。商

い成功の鉄則は昔も今も変わりないようで。・・・

 この問屋で、数年来にわたって多くの商人気質を見てきた。初めてここに着いて、馬を下りるやいなや葛籠(つづら)を開けて、都染の定紋付に道中着を脱ぎ替え、皺皮の鞘袋をはずして、新しい足袋、草履をはき、鬢(びん)をなぜつけ、くわえ楊枝で、誰に見せようとて身なりをつくろい、このあたりの名所を見に行くといって、ご用をつとめる手代を案内に連れて行くような人が、今まで幾人もいたが、一人として出世をした例はない。

 それにくらべ、主人持ちの身からすぐに主人になるような人は、目のつけ所が違っていて、ここに着くやいなや、商い手代に近寄り、「確かに先月中ごろの手紙にありましたように、相場に変わりはありませんか?」、「所によって空模様は違うので、日和も見定めにくいのですが、あの山の雲の立ち具合は、二百日を待たずに台風が来るとはご覧になりませんか?」、「今年の紅花の出来具合は?」、「青苧はどの程度の相場ですか?」と、必要なことばかりを尋ねる干鮭のように抜け目のない男は、まもなく上方の旦那殿より身代よしとなられる。いずれにしても物事にはやり方というものがあるものだ。

 この鐙屋も、武蔵野のように商売を手広くして、しまりのないところもあり、世にいう一見長者風の問屋で、あぶなく見えながらもびくともしないのは、鐙屋なりのやり方があったからだ。どこでも問屋の内情が不安定なのは、きまった口銭をとるだけなのがまだるっこしく、客の商品で勝手な商いをして、たいていは失敗し、客にも損をかけることになるからだ。問屋家業を一筋にやって、客の売物、買物を大事に取り仕切っていれば何の気づかいもないものなのだ。だいたい問屋商売というものは、脇からの見立てと違って、思いのほか万事に物入りが多い。
:
が、それを引き締めて、地味すぎるやり方をすると、必ず衰微して、遠からずつぶれることになるし年中の収支は、元日の朝八時前になるまで分からず、ふだんは、収支勘定のできない商売なのだ。そこで鐙屋では、儲けのあった時、来年中、台所でいるものを、前年の十二月に買っておき、その後は、一年中に入ってくる金銀を、長持に穴をあけてこれに落し込み、十二月十一日に決まって決済するのであった。鐙屋こそは確かな買問屋、銀を預けても、夜、安心して寝られる宿だ。

                       完

*井原西鶴作「日本永代蔵」岩波文庫・角川文庫より抜粋

*ここに描かれる「問屋」は、自らリスクをもって取引をする今の卸商とはかなり業態が異  なっています。どちらかというと、商人宿(多機能付ビジネスホテル)と言った方が良いで しょう。お客ごとに手代 をつけて、当地産品のご案内、販売先のご紹介などのサービス をも生業としているようです。それにしても1年1回の決済で儲けの中から再投資、無借 金経営ということですからなかなか手堅い商売、信用も高まります。ただ、本文では、鐙 屋がどのくらい長く営業を続けたのか、後継者がいたのかなどは定かではありません。 この辺は、大いに興味をそそられるところではあります。

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日本永代蔵 巻の二 第四章その二 天狗は家名風車

天狗源内という人は、名人といわれるほどの鯨突きでありながら信心深く、中でも西の宮の恵比寿をありがたがった。例年一月十日の例祭には必ずお参りを欠かさず、しかも朝,人より早く参拝していた。ある年、前の晩の祝い酒に酔い過ぎて目が覚めると日は高い。あわてて持ち船の二〇挺だてをこがせて急いだ。

早船が広田の浜に到着し、心静かに参詣はしたが松原はさびしく、お灯明の光はほの暗く、皆帰る人だけで参る人は自分だけ。気をせかせつつ神前に来て「お神楽を」といっても神主たちは賽銭の勘定に忙しく、あいそが悪い。あげくのはてに舞姫のうしろで申しわけばかりに鼓を打ち、そこそこにかたずけましょうという風情。頭上で振る鈴も、遠いところからいただかせておしまいにしてしまった。

神のこととはいえ少し腹が立って、末社もざっとまわって、また船に戻り横になるといつとはなく寝込んでしまった。(ここからは夢の中のお話となる)船が出ようとすると、烏帽子の脱げるのもかまわず、たすきがけで袖まくりした恵比寿様が片足をあげて、岩の端から船に乗りこんできた。そしてあらたかなお声で語られるには、「よいことを思いついて信心深い誰かに告げようと思っていたが、皆せわしく、自分の願い事だけ言うと帰ってしまうので、伝える暇がない。遅く参拝してお前は仕合せものだ。ちょいと良いことを教えてあげよう。」

そして恵比寿様がさらに言うには、「鯛の豊漁期の三、四月ごろに限らず、生船の鯛を、どこまでも無事に送り届ける方法がある。弱った鯛の腹に針を立てるのだが、尾先から三寸前を、とがった竹で突くやいなや、たちまち生き返って動きまわるという鯛の治療法、人の知らない新しい方法であろう」

夢から覚めた源内は「これは妙案だ」と思い入れ、お告げのままにやってみると、思ったとおり鯛を殺さず輸送することができた。これでまた源内は利益を得て、仕合せよく順風を真艫に受けて船を乗り出すように繁盛したという。

(出典:「日本永代蔵」井原西鶴作 岩波文庫)

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井原西鶴「日本永代蔵」その六の一、第四章

その昔、捕鯨港として知られた紀州の国の太地に、鯨突き名人、天狗源内という男がいました。この人は鯨突きだけではなく様々な知恵・才覚を働かせて大金持ちとなったのですが、ある年、西の宮恵比寿に参拝し、生舟の中で弱った鯛を生き返らせる方法を恵比寿様のお告げで教わり、一層の成功を収めたということです。

第四章、「天狗は家名風車」は次のように始まります。・・・

海のように広い知恵をもつ日本人の働きを見て、渡世に疎い唐の白楽天が逃げ帰ったというのは面白い話だが、漢詩よりも横手節という小唄のほうが面白く、その小唄の出所を尋ねると、紀伊国の大湊、太地という村の女子供が歌いだしたものだという。

太地は繁盛している土地で、松林の中に鯨恵比寿の宮をまつり、鳥居には鯨の胴骨が立っている。高さは三丈ほどもある。見慣れないものなので土地の人にいわれを尋ねると、これは天狗源内のしとめた鯨の胴骨だという。

ある時、沖に一筋の夕立雲のように潮を吹いている鯨をめがけ、源内は一番の銛を打ち込み風車の旗印を揚げた。漁師たちが鯨に大綱をつけ、声をそろえて轆轤を巻き引き上げたが、その大きさは三十三尋二尺六寸(約六十㍍)のセミ鯨。ことわざに、「鯨一頭捕らえれば七郷の賑わい」というとおり、近郷近在の村里は賑わい、かまどの煙が立ちつづき、油を絞れば千樽以上にもなり、その身、その皮、ひれまでも無駄になるところがない。一躍長者になるには鯨一頭捕らえることが一番という時代だった。

源内は、今まで捨てられていた骨をもらいうけ、これを砕かせて、また油を絞ったところ、思いのほかの利益を得た。さらに捕鯨に工夫をこらして鯨網をこしらえ、見つけ次第に鯨を取り逃がすことがなくなった。ベンチャースピリットに富む減内は、成功してヒノキ造りの大きな家に住み、二百余人の漁師を抱え、船だけでも八十艘、何をやっても調子よく、いくら使っても減る事がないという土台のしっかりした金持ちとなった。このような状態の長者を楠分限という。

・・・つづく

(出典:「日本永代蔵」井原西鶴作 岩波文庫)

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平安丸(Ⅱ)の舵輪 3

 日本郵船博物館に展示されている平安丸(Ⅱ)の舵輪の形のよさ、バランス感覚はすばらしいと思います。直径約1メートルの大きさに迫力があります。最近建造される10万トン級のクルーズ客船でも、その舵輪の大きさは、せいぜい30センチくらいしかありません。さらに、形状も自動車のハンドルと変わらなくなっています。

 本船は戦後の日本で初めて建造された6,000総トンを超える本格的外航貨物船です。戦後の船舶建造はすべて連合軍総司令部の管理下にあり、許可がなければ造船が不可能でした。また、当時船主側の経済力が疲弊していたことから、政府の助成がなければ船舶建造が困難でした。

 本船が竣工した昭和26年は、まだ国内に戦禍の跡が生々しく残っていましたが挑戦動乱の勃発と共に戦争特需が発生し、国内経済にやや活気が見えてきたような状況です。

 昭和26720日、本船は戦後初めてのニューヨーク航路復帰、第一船として就航します。昭和16年の同航路中止以来、10年ぶりの再開となりました。広畑で鋼材、神戸、大阪などで雑貨7,662トンを積み横浜を出港。サンフランシスコ、ロサンゼルス、パナマ運河を経由して820日、ニューヨークに入港しました。

 本船は翌年の昭和27年には、スエズ経由欧州航路の再開第一船として624日に横浜を出港しています。この航路は実に12年ぶりの再開となります。平安丸(Ⅱ)は、戦後、日本海運が世界に羽ばたく先陣を切った記念すべき外航貨物船として輝ける航跡を誇ります。その舵輪が郵船博物館に永久保存されていることは、非常に有意義であるとの納得をおぼえます。

 ちなみに平安丸(Ⅱ)のスペックを見てみますと、

総トン数:6,849トン

長さ:141メートル

幅:18メートル

深さ:10メートル

速力:16ノット

主機関:ディーゼル

馬力:5,000馬力

竣工:昭和26年17日(西日本重工業㈱長崎造船所)

速力16ノットは、最近の高速コンテナー船の20ノット以上の速度に比べて遅いようですが、最近の大型外洋クルーズ客船の巡航速度はこの程度との事です。

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井原西鶴の物語その五の二

・・それにしても、「狼の黒焼はいらんか」と犬の黒焼を売り歩き、何故売れるのか不思議です。そこで、ものの本を調べましたるところ、当時、小児の胃腸病には、犬の黒焼が効くという民間信仰があったようです。特に黄犬を良しとし、黒犬、白犬を次として、狼はさらに貴重品であった。今日のペット愛好家、愛犬家がこれを聞いたら卒倒しそうな話ですが、犬を狼と詐称しても薬効を謳ってはいませんので、今の薬事法にも引っ掛りません。・・・

さて、品川東海寺門前に野宿を決めた大黒屋新六ですが、新六同様に、寄る辺なく大門の片隅に雑魚寝している人たちの中に混じります。眠れぬまま、聞くともなく隣で話す三人の身の上話を聞いていると、三人ともが、にわか乞食の身の上。一人は田舎で小さな作り酒屋を商い67人の家族を養っていた身が、小金が溜まった機会に江戸で一旗上げんものと飛び出し、ものの見事に失敗、乞食に落ちぶれ果てて故郷に帰るに帰れない。「やはりなれた土地、仕事をやめてはならぬものだ」と泣き言がそのまま愚痴となる。

また、一人は富貴の家の生まれなのか、幼少のころより習いごとの一切を見につけた。しかもついた師匠は一流どころ、詩文、浄瑠璃、茶の湯から、鼓や三味線、踊りまで、その道の名人について覚えた。ところがこんな芸の道は、さしあたり生活手段としては役立たず、算盤もできず,計算もできない身では町屋奉公もできない。武家勤めも勝手わからず追い出され、諸芸の代わりに生活の手段を教えてくれなかった親たちを恨んでいる。

もう一人は親の代から江戸のはえぬきで、通り町に大屋敷を持ち一年に六百両(約3600万円)づつきまった家賃を取りながら「倹約」の二文字をわきまえなかったために、その屋敷まで売り果たしてついに物乞いに落ちぶれたという。三人の話を聞いているうちに、自分も同じことだと哀れ深く思い、また心細くなって新六が話の中に割って入ります。

「私は京のものだが、勘当されて、お江戸を頼りに下ってきたのに皆様のお話を聞いていると心細くなりました」と恥を包まず話すと、三人一同大いに同情し、「詫び言の方法はありませんか」、「誰か親戚のおば様でも口をきいてもらえないのか」、「なんとしてでも、江戸にお下りにならなければよかったのに」などと口を揃えて言われた。

「それはもう、前には戻らぬ過ぎたこと、これから先の思案のほうが肝心です。失礼ながら、皆様、人品骨柄卑しからず、お顔を見ても利発そうな方たちばかりとお見受けい致しますが、何でこの境涯にあるのかが不思議です。どんな商売でもできそうなものなのに」と問うたところが、「いえいえ、旅の方、江戸の広いご城下は、日本中の賢い人たちの集まったところですから、銭三文、簡単には稼がせてくれません。銭が銭をためる世の中です」と答えた。

「それでも長く世の中を見ている中に、何か新しい商売の工夫はないものでしょうか」と尋ねると、「そうですな、だいぶたくさん捨てられる貝殻を拾って霊岸島で石灰を焼くか、江戸は何かにつけて忙しい所ですから、刻み昆布か花鰹を削って量り売りするか、一反続きの木綿を買って手ぬぐいの切売りをするか、こんなこと以外には手がるにできる商売はありますまい」というのを聞いて知恵がつき、夜明け方に三人と別れた。その折、三百文(約4,500円)の銭を置くと非常に喜んで、「お幸せが目に見えます。富士山ほどの金持ちにすぐにでもなれますぞ」と言われた。

・・・三百年前のお江戸での商売の競争の厳しさ、銭が銭を生む世の中、手軽にできそうな商売のあれこれなど、読めば読むほど昔も今も変わらぬ商売の鉄則を教えられます。・・・

さて、それから新六は、伝馬町の木綿問屋の知り合いを訪ねて行きます。このたびの事情をここでも包み隠さず話すと、この知人も大いに同情してくれ、「男が働いて見せるのはこういう時だ。ひと稼ぎしてみなさい」と励まされた。そこで目星をつけておいた木綿を買いこみ、切売りの手ぬぐいを、しかも縁日の三月二十五日に初めて下谷の天神に行って、手水鉢のかたわらで売り出したところ、参拝の人が「買うての幸せ、縁起物」と買い求め、一日でかなり儲けた。

それからは毎日商売の工夫を重ね、十年もしないうちに新六は、五千両(約三億円)の金持ちといわれるほどになった。さらに土地一番の才覚者とよばれ、町中の人がその指図を受けるようになり、土地の人の宝ともいえる存在となった。繁盛した店の暖簾に菅笠を被った大黒を染めだしたので、世間では笠大黒屋と称した。

これが「才覚を笠に着る大黒」というお話です。それにしても新六さんですが、追いかけられて、裸で逃げ出すほど怖い親仁さんのお金をよく使い込んだものだ。また、落ちぶれて反省したのか、人の話はよく聞くし、後半ずいぶん素直な人間になっている。犬の死骸を焼いて狼の黒焼を売って歩くアイデアには驚かされますが、その後悪事に一切走らなかったのは、親譲りの商才があったからこそと思われますが、手ぬぐいの切売り以降、一体どんな商売を発明して分限に至ったのでしょうか。一番興味の持てる部分の記述がないのが残念です。

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日本永代蔵その五の一

今回は、巻の二、第三章。「才覚を笠に着る大黒」(江戸にかくれなき小倉持ち、身過ぎの道急ぐ犬の黒焼)という道楽息子のお話。

「道楽が過ぎて親の商売のお金を使いこみ、勘当された京の大黒屋新六は、犬の黒焼を「狼の黒焼」と称して売りながら江戸へと下る。東海寺門前の野宿で乞食たちの身の上話を聞き、少しの元手でできる商売を教えられる。それをヒントに手ぬぐいの切売りを始め、その後も才覚を働かせて大成功」。

一に俵、二階造り、三階蔵とありますから多分米問屋なのでしょう。信心深く分限者といわれた大黒屋新兵衛には三人の息子がありました。京で知らぬ人のいないほどの大店となり、三人の息子も賢く、そろそろ隠居をと考えているうちに、長男の新六が色遊びに走り出した。半年のうちに百七十貫目(今のお金で約255万円)が出納簿の中から消えてしまいます。あわてた手代が、在庫処分で勘定をやりくりして盆前の決算をごまかす。「これからは道楽をやめてください」といろいろ意見するが、またもや二百三十貫目(約345万円)の金がなくなった。

これを知った実直な親仁は大いに腹をたて、奉行所に訴え、正式に勘当してしまいます。新六が隠れ住んだ家にも親仁の追及が来る。十二月二十八日の雪が降ろうかという寒い夜、裸同然、草鞋銭もなく江戸に向かって都落ち。途中の茶屋で人ごみにまぎれて盗み飲み、立ち際に人が脱ぎ捨てた豊島むしろをちょろまかし、とぼとぼと歩いて行きます。明けて二十九日の朝も歩いていくと、落葉して梢のさびしい柿の木の陰で子供たちが嘆いている。

「弁慶が死んでしまった」。見ると子牛ほどもあるような黒犬の死骸。立ち寄ってこれをもらい、筵に包んで音羽山のふもとに至る。野良で鍬を使っている男を呼んで、「これは疳の妙薬になる犬だ。三年あまりいろいろの薬を与え、今、黒焼にする」と言うと「それは人様のためになることだ」といって焼くのを手伝ってくれた。

 焼きあがった黒焼を、その村人にも分けてやり、自分は山家者のなまりを使って「狼の黒焼はいらんか」と変な声で売りあるき、街道筋で大いに商いをあげた。その売上げは五百八十文(約8,700円)。まずは才覚男といったところだが、「この工夫が京でできれば、江戸へ行かずにすんだものを」と心中泣き笑い。日を重ねて美濃路・尾張を過ぎ、東海道筋の田舎をまわって京を出てから六十二日目に品川に着いた。ここまで何とか食べてきた上銭二貫三百文(約34,500円)ため込んだ。

売り残した黒焼を海に捨て、暮れて、行く当て所もないので、品川東海寺門前に野宿を決める。・・・つづきます。

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井原西鶴「日本永代蔵」その四

読んで楽しくためになる。「日本永代蔵」が300年以上の長きにわたって読み継がれた理由がここにあります。ためになる本は山ほどありますが、さらに楽しいということになると限られるでしょう。さらに西鶴の人間観察力、また、俳句で鍛えた文章力がここに重なりあって今に伝えられます。

日本永代蔵、巻の二、第一章。「世界の借家大将」(京にかくれなき工夫者、餅つきもさたなしの宿)に見られる人間模様はさもありなん。

ちょっとへそ曲がりな商人のお話なのですが、今の時代にも通じる感覚。こんな人いそうだなあという納得があります。

二間間口の借家人の身でありながら千貫目持ち(今の相場で100億円か)と評判された藤屋市兵衛(藤市)という人がいました。藤市さんの自慢は借家人でありながら千貫目の財産を持っていること。家持のお大臣は、京の都に山ほどいるが、店借りの身で千貫目持ちは世界に一人という論法。たまたま烏丸通りにある銀三八貫目の抵当にとった家が利息がたまって自然と流れ、自分のものになったことを非常に悔やんだといいます。

この藤市は利口者、自分一代でこの財産を築きました。その秘訣の第一は健康。人間は健康なのが渡世の基本だといいます。家業のほかに店を離れず、自分のノートに世間の相場を書きつけます。米問屋、両替屋の手代が通れば今日の相場を聞き、生薬屋、呉服屋の手代に長崎の様子を尋ねる。繰綿、塩、酒の相場は江戸の出店からの情報を書きつける。そんなこんなで、藤市の店に問い合わせれば何でも分かるという評判をとった。便利屋さんというか、今だと情報エージェントあるいはビジネス・コンサルタントの役割もしていたのかもしれません。

熱心な情報収集、万事にわたる倹約ぶり、常人とは異なる目の付けどころ、一見どけちとも見られる藤市の行為ですが、一代で身代を築きあげたその才覚は並ではありません。さらに藤市さんの偉いところは一人娘の教育を人に任せず、自ずから行い立派に育て上げたということ。

副題にもある「餅つきもさたなしの宿」の顛末は、餅屋が持ち込んだ、つきたての餅代をなかなか払おうとしない主人に代わって番頭が計量して払ったところ、おっと、もっと後から計れば安く済んだものをと悔しがった。なるほどつきたての餅は水分が蒸発するのが早く、時間がたつほど軽くなる。番頭はそれを言われてあっけに取られたという。

並でない才覚で財をなしたという人は、よく世間となじまない例が多いのですが、この藤市さんは晩年近在の人の信用を大いに受けることとなり、道楽息子に手を焼いた近所の親たちが、処世の道を教えてやって下さいと依頼されることが多かった。新年、挨拶がてら訪れた三人の若者が娘の用意した座敷に通される。娘はそのまま台所へ引き下がり、料理するのか、すり鉢を使う様子の音がする。

しばらく待つ間の三人の会話は。「皮鯨の吸物でも作っているのかしらん」と一人が言えば、「いやいや、正月初めて来たのだから雑煮だろう」ともう一人が言う。さらにもう一人はよく考えて、「煮麺に違いない」。やがて藤市が出てきて三人に世渡りの秘訣をこんこんと語って聞かせた。質疑応答の後、藤市翁いわく、「さて、宵から今まで皆さんお話になったのだから、もう夜食が出ても良いところだが、それを出さないのが長者になる心がけだ。さっきのすり鉢の音は、大福帳の表紙に引く糊をすらせていたのだ」と言われ、一同のけぞった。こういうお人柄の藤市さんですが、西鶴見るところ、一見どけちで常識はずれの行動も、本人独特の見事な見識に裏打ちされていたものとしています。

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井原西鶴の物語その三(日本永代蔵)

井原西鶴の物語 その三(日本永代蔵)

今の時代、起業・創業・再生支援など、結構手厚く国の予算が使われ、制度化された支援策が整備されています。井原西鶴が生きた時代は、当然ながらこのような支援制度はありません。まして女性がことを起こすということは、非常に難しかったに違いない時代です。女性は家の中、内助の功があたりまえの世界でした。日本永代蔵、巻の一、第五章、「世は欲の入札に仕合せ」に描かれる松屋の後家さま(名前を伏せたようです)こそ、当時の才覚ある女性の鑑、なかなかしぶとい人もいたものだ、と思わせる人物です。

もとはといえば松屋は地域一番の老舗、なかなか羽振りの良い、晒布の買問屋、大店だったらしい。ところが当主が五十歳くらいで頓死してしまう。人の身代は死んでからでないとなかなか分からないもので、妻子に銀5貫目(今の相場で五百万円くらい)の借金を残したそうです。今の感覚で5百万円といいますと、なんともないようですが、当時では結構大きな新築の家が二,三軒も買える金額であった(あくまで推測)。

この後家さまの年齢は、三十八歳。見た目は二十七、八に見える色白の当代風俗といいますから、まわりがうるさい。おそらく借金取りも日参したことでしょう。幼い子供本位に、渡世の工夫をして、しばらくは耐えたものの生活は貧しさが増すばかり。ついには「住宅を債権者の皆さまにお渡ししましょう」と申し出た。

ところが手入れの行き届かないこの家は借金の額ほどの値打ちが無いと見積もられ、誰も手を挙げません。そこで後家さまは、一生一代の才覚を発揮。町内の人々に嘆願して、この家を頼母子の入れ札(富くじ)にして売ることを企画した。

頼母子講(富くじ)というのは寛永の時代が初まりで、その後あまりはやってしまうので、元禄時代に入ると、幕府から禁令が出ていたらしい。ところがひそかに行うものが絶えなかったといいます。現代では、「当せん金付証票法」、刑法で一般の個人や会社が、宝くじを売ることは禁じられています:

一人から銀四匁(約四千円)を取って、札に当たった人に家を渡すという宝くじ。「損しても銀四匁」ということから、札三千枚が売れた。そこで後家さまは銀十二貫目(約千二百万円)を受け取り、借金の5貫目を返して、残りの七貫目を元手に商売を起こして大成功をしたとのことです。ちなみに大当たりのこの家は、人に召し使われている古手の女中さんの手に渡り、わずか銀四匁で家持となったというお話。

どんな商売を起こして成功したのか、後日談の方に興味を覚えますが、残念ながらその記述はありません。多分、札三千枚を購入したお客さん相手に商売を立ち上げたに違いありませんが、さてどんな商売なのかは謎であります。

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井原西鶴の物語その二

 日本永代蔵、巻一、第二章は、題して「二代目に破る扇の風」。お察しのとおり、このお話のあらすじは、倹約家の親父から大きな遺産を受け継いだ扇屋の二代目が、はじめ大いに親父を見習ってけちぶりを発揮していたものの、島原の遊女あての手紙と一分金を拾ったことがきっかけとなって派手に遊び始める。結局財産を使い果たして、乞食同然の身となった。また第三章は、「波風静かに神通丸」と題して、大阪の商業の中心、北浜に暮らす老女の息子の話、こぼれた米市の米を拾い集め、後にその才覚を発揮して金貸し業を創業し、大金持ちになるという物語。

 二章、三章共に破産と若干せせこましい稼ぎ方のお話で、春からあまり縁起が良いとはいえません。そこで第四章、「昔は掛算今は当座銀」が今の時代に一脈通じて面白い。

 時は天和三年(1683)、三井八郎右衛門が江戸駿河町に新規開店した越後屋呉服店(三越デパートの前身)の成功ぶりは巷の話題となっていた。武家財政の行き詰まりから、従来の掛売りでは、売掛金の回収不安がおこる。このままでは、じり貧が目に見えているというところから「現金売りに掛け値なし」の新商売を始める。

 

 40人余りの販売員、1人が1品種の受け持ち、たとえば毛織物の担当は1反ものの扱いからハギレ10センチの切り売りまでを自由に売り渡す。対面販売はデパート商法の原点です。更に、数十人のお抱え職人が居並び、急なオーダーメードに応える。

 急ぎの羽織などはその場に待たせて即座に仕立てるレスポンス。アパレル産業でSPAの、製造小売のと言っていましたが300年前からこんな仕組みがあったわけ。  

 そういえば昔、香港でも1日で背広を作るテーラーがありました。とにかく現金売りで値引き交渉がありませんから、お客の回転も速い。越後屋呉服店が300年以上続いた理由は、現金売りと対面販売の接客、それと幅広い品揃え。

 最近のデパートの顔は、海外有名ブランド。銀座通りに並ぶ百貨店のショーウインドウには、CLVHなどのブランドが目白押し、それらの直営路面店がすぐ前にあるにもかかわらず採算が合うというのは不思議です。オリジナル企画で元気が良いのは新宿のIデパートのメンズ館ぐらいでしょうか。デパチカも、食品関係では優秀な成績をあげているそうな。

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水割りの基本

謹賀新年
 昨年の夏、ニッカウヰスキー、北海道工場「余市蒸留所」へ行きました。年末に片づけ
をしていましたら、そのときもらったパンフレットが出てきたのです。パラッと見ていました
ら、おいしい水割りは、「1、2、3」が基本とあります。
 何のことかと読んでみましたところ、「1、2、3」とは、ウイスキー1に対して水を2入れ、
さらに氷を3個入れるとのことです。
さらに詳しい説明があり、
One:ウイスキー1
 9オンスタンブラーにまずウイスキーを注ぎます。最初にウイスキーを入れることで量を
確認できます。約2.5センチ(指2本)分が目安です。
Twe:水2
 ウイスキー量の2倍の冷水を入れます。
Three:氷3個
 大き目のかち割り氷を3個入れ、マドラーで均一になるように混ぜます。すぐに飲むよ
30秒ほどウイスキー・水・氷を馴染ませてから飲むと口当たりの柔らかいおいしい水
割り
ができます。これがマスターブレンダーの教える、おいしい水割りのつくり方です。

もちろんウイスキーの種類によって水割りの味は異なりますが、同じウイスキーならこ
のやり方で作られた水割りの方がおいしいことは確かでしょう。
何にでも基本というものはあるものです。

「nikka.JPG」をダウンロード

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井原西鶴物語 その1

 俳句って何だろう?から始まった俳句のココロですが、井原西鶴のところで回り道をしています。俳句から西鶴の小説に興味が移りました。まず「本邦初の経済小説」という枕に惹かれます。だれが唱えたのかは定かではありませんが、意外な人が意外な評価をしているのが井原西鶴の小説です。特に町人ものといわれる「日本永代蔵」、「世間胸算用」、「西鶴織留」の三部作は面白い。

「日本永代蔵」は、今でもよく見る事例集、商売の成功事例が20章、失敗、破産の事例が10章の計30章からなる読み物、短編集です。各章が5、6ページでまとめてありますから読みやすい。さらに俳句の達人の筆になるため、歯切れの良い文体となっている。西鶴の没後3百年以上読み続けられているという秘密は、俳句の心なのかも知れません。

 日本永代蔵の第一章、「初午は乗って来る仕合せ」はお正月にちなんだ成功譚。そのあらすじは、水間寺から銭一貫を強引に借りた江戸の商人網屋が、縁起のいい銭と称してそれを漁師たちに1年倍返しで貸し付け、13年後には8,192貫にして寺に返したという物語。

 ここでいう水間寺は、大阪府貝塚市水間の天台宗龍谷山水間寺のこと。なんとも面白いのはお寺の考案したサイドビジネス。2月の初午に来る参拝客に1年倍返しで小口融資をする。ここでの借金は縁起が良いという口コミ、あるいはチラシも撒いたかも知れない。檀家制度もまだ確立していない時代ですから、お寺の経営も今と同じく難しい。

倍返しとはうまいことを考えたものです。当時は法定金利などなかったようで、縁起物のお金ということから回収漏れは少なかったそうです。そればかりか商売や富くじなどで儲けた人は倍どころか3倍返し、水間寺の銭蔵はいつも満杯。とにかく今年貸した1億円が来年は2億円になって帰ってくるわけですから。始めた当初は苦しかった水間寺の財政も、徐々に豊かになったに相違ありません。

 

ちょっと気の緩んだその隙に銭一貫を借り出したのが江戸の商人網屋です。商人と言ったってこの時の網屋は23歳ぐらいで旅の空、海のものとも山のものとも知れない人物です。境内の雰囲気からちょっと冗談で言ってみたらところが、融資担当窓口の新米坊主が銭一貫を渡してしまった。

推測ですが、通常は小口で5万円くらいまでの金額を住所氏名確認の上お貸しするところ、おそらく銭一貫は百万円あるいはもっとの金額を貸してしまった。おまけに住所氏名を書いてもらおうと思ったら、目の前から消えていたということですからこりゃ住職の怒ること、担当者は吊るし上げをくいます。重役連中が集まってご相談、この貸した大金はおそらく戻ってはこないものと決め、担当者には厳重注意をします。やはりふところが豊かだと鷹揚で、今みたいにすぐ首にはしなかったようです。

 

経験がある方もいると思いますが、不渡りと思った手形が現金化した時の喜びは何者にも代え難い。それが13年後とはいえ、証文なしの貸金が8千倍になって帰ってきたわけですから住職の喜ばないわけはない。お寺全体が湧きに湧いた。そればかりか天下から名工を集めて記念の宝塔を建立したというお話。網屋にしても、ひょんなことから手にした創業資金を、水間寺にあやかりその才覚で財を成したわけですから双方めでたし、めでたし。お正月向きのリッチな一章です。

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井原西鶴作「日本永代蔵」のご紹介

本邦初の経済小説・町人編(今の時代に通じる教訓)

(1)「日本永代蔵」の特徴

○日本永代蔵は、わが国において、それまでの文芸ではほとんど取り上げられなかった町

人の経済生活を正面から取扱った本邦初の経済小説である。作者の井原西鶴は元々

の世界にいた人であり、歯切れの良い文体と共に、文学的評価の高さから今日まで読み

がれている。

(2)構成と内容

  ○副題を「大福新長者教」とし、630章からなっている。成功事例が20章、失敗・倒産の事例が10章からなる。ほとんどの章が実在の人物をモデルとして描かれ、匿名であっても当時の人たちには誰であるかがわかるというリアルな物語集である。

 ○有名なところでは、巻1の第4章「昔は掛算今は当座銀」の三井九郎右衛門は、三井家中興の租とされる三井八郎右衛門である。

○日本永代蔵は、勤勉をもっぱらとする商品・貨幣経済時代以前の古臭い「長者教」に代り、金銀の乱れとぶ世の中に通用する新しい金儲けと処世の教訓書を企画したものといえる。巻6の第5章「金銀あるところにはある物かたり、聞き伝えて日本大福帳にしるし、すえ久しく是を見る人のためにも成りぬべしと、永代蔵におさまる時津御国静なり」の記述がこれを証明する。

○日本永代蔵に記述されている業種は、米問屋、船問屋、晒問屋、両替商、貿易商、呉服商、材木商、茶商、質屋業、染物業、醸造業、製油業、農業、漁業、など。

(3)成功と失敗の要因、心構えのキーワード

西鶴の成功要因キーワード

才覚・知恵・工夫・利発・分別・調義・思案・仕出し・正直・始末・信心・勤勉・堅固・律儀

西鶴の失敗要因キーワード

驕奢・淫酒・不正直・無能

(4)富貴になるための妙薬「長者丸」の処方箋

  ○朝起き五両、家職二十両、夜詰八両、始末十両、達者七両。この五十両を細にして胸算用秤目の違いなきように手合い念を入、これを朝夕飲むべし。

(5)書き出しに見る西鶴の人生観と金銭感覚(巻1、第1章)

 ○金銀こそ「二親の外に命の親である」。金銀なければ人が人として世の中を全うすることができない。また、こと善悪も金銭に影響されることが多い。したがって蓄財は一生の一大事。どんな職業にあっても金銀をためるべし。

 ○とはいうものの人間の一生はまことに短くはかない。死んでしまえば金銀は何の役にも立たず、あの世へも持っていけない。しかし少し残してあげれば子孫が喜ぶ。ひそかに思うところこの世の中、お金でかなわないことは五つのみ。

 ○富貴への道はそれぞれの家職に励むところにある。あまり大きく望まず健康に注意し、信用を重んじて、信心深く朝夕油断なく暮らすこと。これが日本人の幸福にいたる基本としている。

*お奨めの参考文献

イ.「新日本永代蔵」(企業永続の法則)船橋晴雄著、¥1,680

ロ.「日本永代蔵」井原西鶴作、東明雅校訂(岩波文庫)¥600

ハ.経済小説の原点「日本永代蔵」―西鶴を楽しむ(2)谷脇理史著、¥2,940

*お奨めのホームページタイトル

イ.「井原西鶴書簡」(早稲田大学図書館)    http://www.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/ihara/

ロ.「国文学研究資料館」http://www.nijlac.jp/index.html

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井原西鶴氏の略歴

井原西鶴は、寛永19年(1642)、大坂の裕福な町人の家に生まれた。15歳の頃から俳諧に親しみ、のちに、談林派の西山宗因のもとに入門。談林派の俳諧は通俗的な目新しい詠みぶりが特徴で、西鶴は談林派の代表的俳人として活躍。自由奔放な作品を作り「オランダ西鶴」と呼ばれた。特に、京都三十三間堂の通し矢にならい、一昼夜かけて、できるだけ多くの句を詠む「矢数俳諧」が有名。一昼夜に23500句を詠む多数吟の最高記録を打ち立てたが、句自体の記録は残っていない。

延宝3年(1675)に妻を亡くした折、追善のために、一人で一日千句詠むという「独吟一日千句」を成し遂げる。このパフォーマンス性が受け、談林派の名前を広めた。これより後、西鶴を含め、多くの人が矢数俳諧に挑戦し、記録が更新されてゆく。一時は大いにもてはやされた談林俳諧だったが、次第に飽きられ、宗因が没する天和2年(1682)より少し前頃から、談林派は衰えの兆しをみせた。西鶴も、俳諧から浮世草子へと活動の中心を移した。
 

天和2年(1682)、西鶴は小説『好色一代男』を刊行。これを始まりとし、江戸初期に上方中心に出された娯楽的な通俗小説のことを浮世草子と称するようになった。浮世草子は大流行し、西鶴はその第一人者として活躍。
 

元禄6年(1693810日、西鶴は52歳で亡くなる。没後、弟子の北条団水らが西鶴の遺稿を整理編集した、『西鶴織留』『西鶴置土産』などを刊行。
 西鶴の作品は、江戸時代は勿論、明治時代以降も、多くの作者に影響を及ぼした。井原西鶴は、延宝から元禄期の文化形成に大きく貢献しており、江戸時代前期を代表する人物といえる。
(以上、井原西鶴紹介HPより抜粋)

井原西鶴いはら さいかく):本名平山藤五(ひらやま とうご)
1642年寛永19年)~1693年9月9日元禄6年8月10日
江戸時代俳人、浮世草子人形浄瑠璃作者。別号は鶴永二万翁

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西の西鶴、東の芭蕉。

松尾芭蕉といえば、「古池や・・・」とすぐ名句が浮かんできますが、井原西鶴の俳句というのが見つかりません。西鶴はどちらかといえば小説家、今でいうノンフィクション・ライターとしての評価が高いようです。

 まず「好色一代男」などの好色ものや武家もので浮世草子を手がけ、「世間胸算用」、「日本永代蔵」などで、商人世界を描きます。

「日本永代蔵」の巻一、「初午は乗ってくる仕合」の冒頭の記述に、(人間、長く見れば、朝をしらず、短く思えば、夕におどろく。されば天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢まぼろしといふ)とあります。

要するに「人間の一生は意外と短いもので、光陰矢のごとく、この世は夢のように過ぎてゆく」ということなのでしょう。

これは芭蕉の 奥の細道の序文、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」と非常によく似た記述です。
 両者とも李白の詩、「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」からヒントを得ているとされます。同じ時代に生きた俳句人が、同じ李白の詩歌の一文を借り用いて文章を作っているわけです。

松尾芭蕉は、どちらかといえば世事を離れ、仙人のように生きた人というイメージがあります。
 一方、井原西鶴は、当時の世相、風俗、人情に通じ、さらに大阪商人の世界、金銭と商売の関係、成功と失敗の経緯、すなわち人間の生の生活に関心を持ち、文章にとどめました。経済にかかわる商人世界を、文学的に描いた本邦初の小説家といわれています。

それでも図書館で、西鶴本を探していたら、五句ばかり、西鶴の俳句が見つかりました。一日一昼夜に四千句を作ったというのにあまり俳句の作品は残されていません。

○西鶴の五句

  • 大晦日定なき世の定かな
  • 辻駕篭や雲に乗り行く花の山
  • 山茶花を旅人に見する伏見かな
  • 茶をはこぶ人形の車はたらきて
  • 通ひ路は二條寺町夕詠

 
○次に、松尾芭蕉が、奥のほそ道、旅の途中で作ったという4句をもう一度あげます。

 ・夏草や兵どもが夢の跡

 ・閑さや岩にしみ入蝉の声
 ・五月雨を集めて早し最上川
 ・荒海や佐渡によこたふ天河

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